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2020-06-14

じぶんへの愛 part2

前回、「じぶんへの愛 part1」と題して、愛を連呼した私です。
じぶんに愛を大切に、と書きました。

今回はその続き。

よく耳にしますよね。
特にヨガやっている人は多いのではないでしょうか。
「じぶんに愛を」って。
私も、どうだー!と言わんばかりにそんなことを前回書きました。笑

聞くタイミングによってはその響きだけで、”ジーーン”とくるかもしれない。
響きはいい!うん、なんとなく。笑

でもそれって一体なんなの?って、そんな話。

現代に生きるためには、ある程度のお金が必要です。
自分で直接得る、別の形で入ってくる、に関わらず呼吸しているだけでは生活になりません。

「〇〇しなければ」の中でしか生きていけない、という刷り込みや先入観なしで大人になる方が至難の技。そして、社会で生きていくためには、モラルや常識を求められる。

そう言う中で生きているといつの間にか「自分の求めているもの」より「外から求められるもの」に焦点があっていくのもある意味自然な気がします。
もしくは「外」を「内」より優先していく。

湧き上がるものを、正しいから、常識だから、という言葉で抑えていく。

特に日本の教育では「みんなと同じことをやる」「出る杭にならない」と言うことがとても大切。もし自分のやりたいことがそれからはずれるなら、
人生をかけたような大きなことでなくて、日常の小さな選択でさえも枠を超えていくエネルギーと勇気は結構いります。

「他人と自分が違って当然」という考え方はすっこーんと抜け落ちて、「求められることができる」ことが認められる一番の近道になり、エネルギー節約になっている気がします。

「求められている」とこをやれば、褒めてもらって嬉しい。
「求められてない」とこをやれば、怒られて悲しい。

これを何千、何万と繰り返し大人になっていく。
そして大人になって突然「自分らしく」なんて言われても何が自分なのかもわからない。

という私自身も子育ての中、子供に対して「これしたらおやつあげる」「兄弟仲良くできたら、後でテレビ見ていい」などを多用しています。はい、、、笑

無条件に「生きてるだけでありがとう。それだけでいいんだよ。」ってどれだけ伝えられてるのでしょう。

じぶんに、そして周りの人たちに。

みなさんの原型はどんな形なんでしょう。
欠けや個性のある形を、こうあるべき、と取り繕う前の。

それを外へ向かって出すか出さなかと言うことは別にして、その形を自分で認識する、一旦受け止めるのもいいのでは、とここで(やっと、笑)冒頭のじぶんの愛へ話が返っていきます。

じぶんへの愛は、自己受容や自己肯定につながります。

まずは一生懸命握ってきた、あなたの世界を良い意味でも作り守ってきてくれた「常識や刷り込み」を外して、ただ今、ここに呼吸をしている自分を受け止めていく。受け止めて、優しい言葉をかけてあげる。

それが愛だと思います。

まるで落ち込んでる友達を励ますように。
優しさで子供と接する時のように。
大人になってそんな風にじぶんに対して接する時間がどれだけあったでしょうか。1日に湧き上がる6万回とも言われる思考にどんな風な声かけ(セルフトーク)をし、どんなフィルターで情報や思考を処理しているでしょうか。

湧き上がるものをジャッジしない。
取り繕ろうとしない。
欠けを、個性を見ていく。

それは練習もなしにはできません。
習慣になっている、正しさを求めること、ジャッジをすること、はなかなかやめられません。回路ができていて、意思とは関係なく反応で起こっていきます。むしろ自分を制限し苦しめている回路であっても、その処理の仕方に慣れ親しみ、もしかしたらホッとさえする場合もあります。

そこがあなたにとっての快適な場所(コンフォートゾーン)になっているからです。

でも、無意識に湧き上がる意識や感情を「意識的」に捉えるようになると、
自分を自分で苦しめていた、反芻思考または、感情と一体になることから距離が取れるようになります。

自分の内から湧き上がるものを見ていく、ただ受け止めるだけ。

その練習を私はヨガや瞑想でしています。

まるで筋トレのように繰り返していくと、「ただありのままに観る」と言うことが少しずつできようになります。
そこには何かを変えようとする力がありません。

受容だけ。

聞いてもらいたい話を、「うんうん」とただ優しさだけを持って傾聴してもらうように。
そうなんだね、って。

急に梅雨が始まりジメジメしていますね。

次回は、ヨガでありのままを見てく練習ってどういうことなのか、また視点の変え方、自己受容や自己肯定についてもっと掘り下げつつ、それを周りにも広げていくお話を書きたいと思います。

読んでくださってありがとうございます。

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